縄文時代というと、原始人に近い狩猟の民と、縄の文様が描かれた土器くらいしか思い浮かばないと思いますが、
近年の研究では、日本中に張り巡らされた交易システムを持ち、1万年近くに渡って平和を維持した高度な文明であったことが分かってきました。
現在の我々の文明は、せいぜい、3~4千年のものですから、とんでもない長い年月をかけて成熟した文明が存在したことになります。
一説には、縄文人には「悩む」という概念がそもそも無かったのではないか、という面白い仮説があります。
現代人が持たない、神々との交信と言う習慣を誰もが当たり前に持ち、その結果得られた情報を基に、生活の全てを判断して行動していたと言うのです。
話は少し変わりますが、近頃、HSPと言う言葉が流行っています。
「Highly sensitive person」の頭文字を取ったものですが、要するに、「感じやすい人」と言うものです。
HSPを訴える人は、その診断を受けただけで安心するのだから不思議なものですが、彼らは一般に優秀な職人気質であることも少なくありません。
色々なことに気付きやすいのですから、その繊細さを活かせば、他人の持たない能力を発揮するのも納得できます。
問題は、繊細な感受性をスタートラインとして、頭脳で色々と考え、悩んでしまうことだとすると、
そもそも感じたこと、不快に思うことをキャッチしたら、それを全て受け止めた上で、
行動に繋げていくという対処法が有効に思っています。
これは以前にも紹介した、ACT(Acceptance & commitment therapy)にも通ずる方法ですが、
人は感じたものを頭で分析しすぎて自滅するという性質を持つため、
その感覚を一旦置いて、機能する行動に結びつけていくことを大切にする療法です。
実は日本において明治時代から発展してきた森田療法は、このACTとほぼ同じものであり、現在までに神経症に対する有効な療法として確立されています。
これらの療法は、現代人がある意味、考えすぎて動けなくなった状態を、人間本来の活動状態に戻してあげるものであり、
縄文の感覚を呼び覚ますものであると、個人的に考えています。
西洋文明の分類主義により、人間全体としての身体感覚や直感を置き去りにした結果、多くの人が神経症的に「悩む」という状態が当たり前になりました。
でも、そもそも、人間の脳ミソは「悩む」ために存在していないのです。
胸の真ん中で受信したマイナスの感情は、必ず一旦、ハラに落として受け止める。
臍下丹田と言われるへそ下3センチほどの場所を、日本人は「ハラ(月ヘンに土)」と呼んで大切にしてきました。
「ハラを決める」と言うように、精神の作用としても、また、武道における身体の動きの中心としても、重要な場所であるハラには、
現代科学で解明されていない重要な機能がたくさん詰まっていると見ています。
頭と胸の間でグルグルと回ってしまうループを解き放つには、具体的な行動を起こすことで、その悩みを一旦「ハラ」に落とすことが重要です。
そして、ハラが決まった後は、ハラを起点として行動し、ハラから湧き上がる感覚を基に、頭脳を補助的に使うのが、日本古来の手法です。
ちなみに腹式呼吸も、このハラを意識するのに有効な方法の一つです。
私の家のすぐ近くには、縄文時代の古墳があるのですが、
縄文の知恵と魂は、一万数千年を経ても、日本人の身体の中に眠っていると考えています。
これから来る大変革の時代は、この、生命の中心にある感覚を使用せずにはいられないものであり、
長い長い時を経て、日本人が再び覚醒するために与えられた、試練の時代でもあるような気がしています。
Taichi