海亀のつぶやき

ロスジェネ世代の言葉とチャレンジ

常識とはなんなのか

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昭和の一桁世代は、敗戦の玉音放送後に校長先生が、

「はい、今日から皆さん、民主主義の世の中になりますよ!」

と笑顔で朝礼をするのを見て、それ以降は何も信じなくなったと言います。

それまで、お国のために死んでこい、と言っていた人間がいきなり、微笑みながら民主主義を唱えるわけですから、

正常な子供なら、何も信じたくなくなるはずです。


それから、その「何も信じなくなった昭和一桁世代」は、高度成長期を牽引して我武者羅に働いて、

冷蔵庫、洗濯機、ブラウン管テレビを三種の神器と呼び、

車は「いつかはクラウン」、マイホーム一戸建てを夢見て昭和のバブルまで駆け抜けました。


それでも物欲を介して、日本人が共通の夢を見れた時代は幸せだったのかも知れません。

それから平成の30年、結局多くの日本人にとって共通の夢や常識と言うものはもう存在しないのに、

中央政府がなんとかして、日本国民全員の常識を守るべく頑張ってみたものの、どうにもならなかった。

近頃のコロナに関する責任の押し付け合いを見ていると、

明治以来の日本の中央政府と地方との建て付けがもう、早晩、崩壊するのを暗示しているように感じます。


結局、日本のような小さな島国でさえ、各地方の風土や気候や名産品や気質や魂は異なっていて、

これからは、各地方が江戸時代に戻ったような形で、自分たちで地方を盛り上げて行かなければ、立ちゆかなくなると思います。

現在の金融と貨幣制度が、納めるところを無くしながら、破綻するまで突っ走っていくのと同時に、

単なる名産品とか観光資源とか人柄とかだけで無くて、

そこに住む人達の常識や幸せの形までが、それぞれの形に帰っていくという事が起こっていくのだと思います。


手塚治虫の名作「火の鳥」の中にも、大化の改新から始まった中央集権体制の勃興の時、

里山にそれぞれ住んでいた天狗達が、国教として掲げられた仏神達によって蹴散らされていく様子が描かれています。

広い意味では、1375年前に統一された日本の国体が、

これからの数十年で新たな局面に変容して行かざるを得ない、

本当に稀な時代を迎えるという気がしています。

その時、千数百年間、脇役に甘んじていた天狗達が、復活の雄叫びをあげることになるのか。


人間である我々は、世間の常識と言われるものが本当に必要か、自分にとって心地いいのか、それが無いと本当に生きていけないのか、

一つ一つ自分で考え、捨てるべきは捨てて、勇気を持って行動していく、

そして、自分で自分の世界を顕して、守っていくことが必要な時代と感じています。




Taichi