生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終りに冥し。
これは、空海さんの言葉ですが、およそ、人は自分たちの死について考えることをせず、
輪廻を繰り返していることを嘆いて歌ったもの、と言われています。
2015年に1200年を迎えた高野山を旅したとき、50年に1回入れる空海さんのお墓を見て回りました。
1200年間、毎日欠かさず食事を届けられている地下の空気には、何か暖かいものを感じました。
我々の意識を、起きている時間、夢を見ている時間、熟睡している時間に分けてみると、
起きている時と夢を見ている時の記憶は多少なりとも有るわけで、
普通は記憶のあるこれらの過去の時間のことを、人は自分の人生と見做している訳です。
でも、空海さんも含めた悟った人達にしてみれば、それこそが自我の幻想であり、妄想であると言われます。
仮に本当の生命が太陽だとすると、我々が人生と見做している時間と言うものは、月に反射された光だけを見ているようなもので、
制限された自我の範囲でしか、ものを認識せず判断せず、ほとんどの人が日々、些末なことに右往左往して人生を終えてしまうのかも知れません。
魂が永遠のものだという仮定から入れば、起きている時、夢見ている時、熟睡している時、そして、
一つの人生を終えた時も含めて、何かしら変わらぬもの、が存在していることになるのですから、
その、何かしら変わらぬもの、を毎日布団に入る時に捕まえてみようという気で眠りに落ちていく、
これもある意味で、貴重な修行であり、大切な時間であり、
お金もかからず三密にもならない、有意義な自分探しの旅になると思います。
Taichi