世界中には、悟った人、覚醒した人に関する逸話が数多く残っています。
もちろん、ブッダやキリストはその代表ですが、
少し変わった狩猟の民の話をしたいと思います。
古くからの狩猟民族には山の掟というのがあって、
山に入る時、心の中で想像することや考えることまで、厳しく制限される文化があります。
それは、動物の潜む山の奥深くを聖地と捉えるだけでなく、
実際に野生の動物は、人が頭で想像することに反応して、姿を消すからだというのです。
特に性に関する想像は御法度で、妻のいる狩人は、妻のことでさえ、想像もしてはいけない、
そして、草むらに潜んだまま、何時間でも心を空にして、獲物を待つというのです。
神秘化で有名なロシアのグルジェフは、このような狩猟の民の中に、
真に覚醒した人物を認めたと言います。
一方で、小乗仏教の戒律も、同じようなロジックのもとに、組み立てられているようです。
小乗仏教では悟りの究極的な境地を、母なるもの、究極の母性なるものに重ねており、
繊細かつ深遠な悟りの境地に達するには、
性の観念を厳しい戒律によって制限する必要があるとしています。
つまり、猟師にとっての掟は、命を与えてくれる母なる山に分け入っていくための地図であり、
仏教にとっての戒律は、母なる空の大海原に向かうための海図であると言うことになります。
悟りと性の問題というのは、大乗仏教や真言密教、一部の性的なヨガなど、
人間の壮大な試行錯誤に繋がる興味深いテーマですが、
とても、一筋縄には語れないので、折に触れて話していきたいと思います。
もちろんそこには、自然や野生との対話という共通点もありますが、
物理的な獲物を得るための掟と、精神的霊的な悟りを得るための戒律が、
結果として、人を同じ悟りの境地に誘うことになるというのは非常に興味深いことでです。
悟りとか覚醒という状態が、何ものにも縛られない自由自在な心の境地だとすると、
何よりも強い誘因を持つ性の観念から自由になる事が必要なのは理解できます。
ただ、そこへ至る道は、集団や集金とともに戒律を重んじるような宗教よりもむしろ、
全て事情が異なる個人個人の、日々の仕事や生活の中にあるのだと思います。
Taichi