海亀のつぶやき

ロスジェネ世代の言葉とチャレンジ

究極に幸せな生き方

 

かなり前にこのブログでも書いたことですが、心理学や精神医学のプロが集まって、

 

「絶対に鬱にならない方法」という題で話をしたことがあります。

 

全員一致で賛成せざるを得ない結論は、

「諦めないこと、そして自分を認めること」

でした。

 

その真意は、「人が鬱になるのは色んな願望を諦めざるを得なくなって、かつ、そんな自分を受け容れられなくなってしまうから」とのこと。

 

一時期流行?した、新型うつの発生メカニズムは、この考え方で間違いないと感じているところです。

 

換言すると、「一生諦めずにチャレンジしていける夢を持った人は、精神を病むことはない」と、言えそうです。

 

それでも、高齢になると人は、何事も億劫になり、変化を嫌い、新たなチャレンジどころではなくなる、というのも真実です。

 

病を持つ人などは、正直、「夢」や「チャレンジ」や「自己承認」どころではないかもしれません。

 

そんなことを考えていると、一つ思い出すエピソードがあります。

 

ALS(筋萎縮性側索硬化症)という病で全身の筋肉が徐々に停止し、最期は、眼球のみしか動かせなくなった人が、

 

眼球移動によって文字を打ち込む機器を体に取り付け、それによって、他人との会話を行い、小説を書いたりして暮らしていました(耳も聞こえないので、他者もワープロに文字を打ち込むことで会話する)。

 

それでもその人は、「心底、今は人生で一番幸せな気持ち」だというのです。

 

なぜなら、人とのコミュニケーションができて、自らを小説で表現して、これこそが人生の幸福でなくてなんだろうか、、、と。

 

五体満足な人は、無くした機能や得た病について嘆き悲しみ人生を呪いさえするところ、

 

ALSの末期患者は、こんな境地にまで達してしまうという事実は、その後の私の人生哲学の最大のバックボーンとなった気がします。

 

いずれにせよ、一生成し遂げられないと思える程の究極の理想を持ち、毎日をそのための「実験」と捉えて楽しむこと、これが今の私の生き方の根本にあります。

 

チャレンジとか諦めないとか言うと少し気後れしてしまいますが、何事も取り敢えずやってみて、だめならそれも一つの実験(経験)だったと思えば楽に生きられますし、

 

ゴールや理想は、個々のどんな実験も包括してしまうほどの抽象度を持っている(高すぎるほどの理想である)方が、逆に、自分を承認しやすくなる面もあります。

 

たとえ最期に、理想の半分も達成していなくても、そんな心持ちで過ごした過程こそが幸福な人生と言えるのではないかと感じています。

 

 

Taichi