(南淡路からうずしおを臨む)
岐阜県神岡鉱山の地下1000メートルにある、スーパーカミオカンデという実験施設では、
ニュートリノと言う物質の最小単位が、地球も人体もこの世に存在する(と人間が思っている)全て「もの」をすり抜けるということ、
つまり、我々が目にしている全ての「もの」は、実は実体がないのだと言うことを、科学的に証明しようとしています。
「実体がない」とはどういうことかと、頭も混乱しますが、全ての「もの」は「波」であると考えると分かりやすそうです。
携帯電話の5Gも、我々の目に入る全てのものを色づけしている太陽光などの可視光線も、科学的には全て電磁波とされています。
人に見えるものや触れられるものは単に、この可視光線が捉えられる範囲の「もの」だけであり、
可視光線以上の波の細かさを持った全ての「もの」は人間には見えません。
だから、現代のこの空間に飛びまくっている携帯電波も、電子レンジの電磁波も、もちろん見えませんし、
「情報」とか、「他人の頭の中のイメージ」も、もちろん見えません。
それでも情報やイメージは、「思う」とか「考える」とかの作用を発現する「波」として、人に見える範囲の「もの」と同じように存在し、
時間と空間の中で変化して、具体的に人の心を変えたり、その結果、現実を大きく変えて、見える物に転換していったりします。
これらのことは、あたかも海上の波が、波として確かに存在するが、
波それ自体として永遠に存在するわけでは無く、全ての波がお互いに存在し影響し合いながら、また新たな波に変化していくことに似ています。
我々の目に一つの「もの」として存在する固い石でさえも、その源をたどれば、大海の波と同じようにこの世に存在する一つの「波」であり、
時間の経過により必ず変化して他の「波」に形を変えていくと言うことなのかも知れません。
結局、ニュートリノという最小物質が、全ての「もの」をすり抜けて行ってしまうと言うことは、
ニュートリノが、とにかく一番小さい「波」であるために、全ての「波」をかいくぐってしまうと言うことになります。
でも、ここで一つ大きな疑問が起こります。
この世の全ての「もの」と現象と、さらに、それらを認識する作用までもが「波」であるとして、
その「波」は誰がどうして創ったのか、
ニュートリノという最小波こそが全ての現実を創り出す神と呼んでいいのか、と言う話になります。
2500年前にブッダが、「諸行無常(全ては移り変わる)」「諸法無我(全ては実体が無い)」と表現しましたが、
飛騨の大地の奥深くで検出されるニュートリノとは何なのか。
全ての「波」が起こる前の「空」があるとみなして良いのか、それこそがニュートリノのことなのか、
そうすると我々人間の大本は「ニュートリノ」という「空」だと言ってよいのか。。。
何れにしても、今、世界中で吹き荒れるフェイクニュースもそれ以外の全てことも、
結局はテレビやラジオの電波と同じように、単なる「波」の一つであり、言わば泡沫(うたかた)の幻なのかも知れないと思うと、
それらを遠くからゆったりと、洋上の波を眺めるように、悠々と生きていくのが最良かも知れないと感じます。
Taichi